「こっち向いてー!」「笑ってー!」
こういう撮影が、私は苦手。撮る側としても撮られる側としても。
笑って〜!と言われても急に笑えないし。
笑って〜!と言われてつくった笑顔には「嘘」がある気がして、やっぱり好きになれない。
だから私は自分が撮る側のとき、「笑って!」とはおそらくほとんど言ったことがない。
無理に笑わせても意味がない。笑顔が撮れなかったら撮れなかったで仕方がない。それが「今」の姿なのだから。
そう思っている。
だけど、最近その考え方のほんとのところが少し理解できた撮影があった。
私が興ざめする撮影
ときどき、子どもを笑顔にさせようと必死になって、最終的に怒り出してしまう親御さんがいる。
「今の見せてもらっていいですか?」と何度もモニターをチェックして、納得の笑顔が撮れるまで「すみません、もう一回お願いします」という親御さんもまれにだけどいる。
そんな姿に興ざめしてしまう。
もちろん、仕事だからお客様が望むならばお子さんが笑うまで待つし、何度だって撮り直しもする。
けれど、撮影が終わったときに虚しさを抱えている自分に気づくのは、そんな撮影をしたあとだ。
なんでそんなに「笑顔」にこだわるんだろう。ばっちり満面の笑顔の写真一枚をねらうなら、「絶対笑う」とうたっている子ども専門の写真館のほうがよっぽどいい。
あえてスタジオではなくロケーション撮影を依頼したのは、「子どもの自然な表情を」と希望したからじゃないの?
ならば泣き顔だってふてくされ顔だって、「自然な表情」には変わりないはず。
私は笑顔じゃない表情も、ちゃんと撮ってさしあげたい。
人見知りのお子さんの撮影
「息子は人見知りで、今までスタジオとかで一回も笑顔の写真を撮れたことがないんです」
その日のお客様は10ヶ月になるお子さんを抱いてそう言った。
お母さんにぴたっとくっついてこちらを伺っている息子くん。
「今日はよろしくね〜」と、にぎったこぶしを握手するように軽く揺さぶってみると、それだけでじわじわと涙目に。
こりゃいかん。今日は苦戦するかもしれない。でも笑顔の写真をお望みのようだから、できる限りがんばってみよう。
そう思って撮影に臨んだ。
最初は望遠レンズを使って遠くから。立ち位置と抱き方、顔の位置だけお伝えしてすすすーっと下がる。
撮る。
ときどき目線をもらうために声をかける。
また撮る。
再び息をひそめて二人の自然なやり取りを観察する。
撮る。
後ろに人が写り込んできたので、私は位置を移動して違う角度から狙う。
少しずつ距離を詰める。
撮る。
カメラをおろして話しかけてみる。
さっきより警戒していない。
あの手この手であやしてみる。もちろんお母さんにも協力してもらう。
あ、笑った。
撮る。
笑顔の写真が撮れたので、お母さんにその場でモニターをお見せした。
「ほんとだ。笑ってますね」おしとやかなかただったけど、ちょっと興奮した感じが伝わってきた。
「喜んでもらえた!」と思うと、私もすごくうれしかった。
そのあとの写真も割合的には笑っていないものが多かったけど、数枚の笑顔の写真を含めて納品すると、とてもとてもよろこんでいただけた。
二種類の「笑顔の写真を撮りたい」気持ち
「笑顔の写真を撮りたい」という親御さんの気持ちには二種類ある。
ひとつは、「写真で良く見せたい・記念だからちゃんとしたものを残しておきたい」という見栄や義務感からくるもの。
そしてもうひとつは、「いつもの顔を写真でも見たい」という、ごく自然な気持ち。
この日のお客様は後者の気持ちでいたんだと思う。
私も現場ではそこまで明確に意識していなかったけれど「いつもお母さんと遊んでいるときのリラックスした表情が撮れればいいな」というゴールを設定していた。
お客様も私も、お子さんの「いつもの笑顔を引き出したい」というところで目的が一致していた。
だから「笑わせよう」と思いつく限りの手を尽くしたこともまったく苦に感じなかったし、先のような虚しさも感じなかった。
「笑顔」の写真を撮る
私は写真で日常のなんでもない日のようすをあるがままに切り取って残せたらと思っている。
だけどこの考えは破綻していて、「写真を撮る(撮られる)」という時点で、それはもうすでに「日常」ではなく「非日常」なのだ。
他人が入り込むという点でも、カメラを向けられているという点でも、もはや本来の日常ではありえない事態であって、だからこそみんな緊張したりぎこちなくなってしまう。
本来「非日常」であるものを、いかに「日常」に近く、「素」に近づけていけるか。
そこにフォトグラファーとしての腕がかかっている気がしている。
私は、作り笑顔としての「笑ってー!」はこれからも口にしないと思うけれど、「いつもの表情を引き出す」という意味での笑ってもらうためのあの手この手は磨いていきたい。